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あおぞら共和国物語

難病や障害を持つこどもたちとその家族たのめに

んなのふるさと あおぞら共和国物語」より抜粋
※本書の電子ブックとPDF版は小口弘毅医師のホームページに掲載されています。

あおぞら共和国のは難病のこども支援全国ネットワーク(難病ネット)が設立されてから長い間の悲願でした。

第一章
難病ネット発足

難病ネットの代表・顧問を努めた小林信秋の長男大輔は、1980年に可愛い盛りの5歳でSSPE(亜急性硬化性全脳炎)を発症し、国立小児病院に入院しました。
その頃、大輔の主治医である二瓶健次医師は、大輔に付き添っている小林洋子にSSPEの親の会を作るように勧めていました。

母親を中心とした家族同士の交流が大きな支えとなっていた洋子は親の会を作ることに心を奪われていました。しかし小林信秋は「患者会を作って、傷を祇め合っても仕方がない」と、さらに「会の面倒を誰が見るのか?」とはじめは冷ややかでした。しかし洋子は信秋に「あなたが会の面倒を見て下さい」と言い返しました。結局、小林信秋は他の親達とそして二瓶健次医師をはじめとした小児病院の医療スタッフと話し合いを重ね、1984年12月にSSPE患者・家族の会(SSPE青空の会)が発足しました。

大輔へ

難病ネットの代表・顧問を務めた小林信秋の長男大輔は1974年、小林家の長男として生まれ、二人の優しい姉の居る家庭に育ちました。1980年に5歳でSSPEを発症し、8年に及ぶ闘病の末、1988年に大輔は13歳で亡くなりました。それから10年経った1998年に追悼文集『大輔へ』を小林信秋は発行しました。ここに一部を引用します。

時間は様々な大きな出来事を過去に追いやり、どんなに辛かったことでも時間と共にその辛さの記憶は薄らいでいくものです。しかし大輔の闘病と死は、私たち家族にとっては忘れることのできない衝撃でした。私自身今も息子を思わない日はありません。恐らく妻も娘たちも日々の生活の中で、絶えず大輔の面影が頭の中をよぎっていることでしょう。私にとって大輔の思い出に浸る時間は至福のときです。電車やバスの中で座席に腰をかけ眼を瞑ると、必ずと言って良いほど息子の面影が瞼に浮かんできます。―大輔、元気にしてるか?父さんにとってお前は希望だったり夢だったり、未来そのものだったりするんだ。
病気をしてから、父さんは仕事なんかよりお前の側にいることの方がよっぽど大事だった。面会日には仕事をさぼって病院に行った。駅に貼ってあるジャンボジェットの操縦席のポスターをひっばがしてお前のベッドに貼った。日曜日には父さんが付き添った。ある朝、病室に入って行くと、お前は突然立ち上がり父さんの首に抱きついた。もう歩くことも少なくなっていて、お話しする事も減っていた頃だった。「待っていたのか?」と聞くと、「うん」とうなずいた。
休みの度にお前に会いに行ったが、日が経つにつれて前のように静かな表情のない大輔になっていってしまった。チューブも入れられていた。父さんと母さんは相談して、病院が止めるのを聞かずお前を家に連れ帰った。部屋のドアを開けるとき、お前はニッコリ笑った。その夜、何度も何度も目をさまし、母さんの声を確かめては眠りに入っていったお前を二度と手放さないと母さんと誓った。

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第二章
サマーキャンプ

小林信秋は会員に「キャンプしよう」と声をかけましたが、最初はほとんど反応がなく、ようやく1986年8月に医療者の協力を得て、伊豆湯ヶ島湿泉の国民宿舎で青空の会サマーキャンプを開くことができました。キャンプは大成功で、母親同士、父親同士、きょうだい同士の交流の輪ができ、心の底から楽しむことができました。このサマーキャンプから全てが始まり、夢プロジェクトにつながっていきました。

第一回のサマーキャンプ

順天堂大学大学院医学研究科特任教授の山城雄一郎は、サマーキャンプについて書き残しています。

難病のこども達の学校生活、特に入学条件、授業参加、遠足や修学旅行などで困難な問題に直面していることが浮上してきた。例えば人工呼吸器や酸素吸入が必要などの理由で、遠足や旅行の経験が無いこどもが多いことが話題になった。その結果、難病児とその家族、特に24時間365日、難病児の介護に当たっている母親の休養(レスパイト)も兼ねて2泊3日の第1回サマーキャンプ『がんばれ共和国』を1992年8月に富士山麓で開催することになった。多数の難病児が宿泊するキャンプであるから、単なる発熱、嘔吐、下痢に留まらず、原疾患に起因する重篤な症状発現への対応策を小児科医、小児外科医が事前になんども集まって検討し、緊急時の使用薬剤や医療器具の準備、さらに看護師の応援参加もお願いした。

 

家族、ボランティアも含めておよそ700人が参加する一大キャンプイベントになった。私は主催者であると同時に医療班を率いており、緊張して緊急事態に備えていたが、幸い無事に終了することができた。キャンプ中のエピソードを紹介する。キャンプ地の丘で私は東大小児外科の河原崎秀夫先生と二人で、比較的健康状態の良い学童をハングライダーに乗せて低空飛行を楽しんでいた。すると突然、河原崎秀夫先生が主治医である胆道閉鎖症を有する男児が現れ、「僕も乗りたいと言ってきた。この子は肝腫大があり、もしハングライダーから転落して腹部を強打したら肝臓破裂をきたす可能性がある。二人で顔を見合わせて「どうしよう」と迷った。その子だけ断ることはできない、間髪をおかず、河原崎秀夫先生は私の耳元に「事故が起きたら富士宮市民病院に救急搬送し、私が救急対応する」と囁いたのです!結果、ハンググライダーは無事着陸した。我々の悲壮な決意もどこ吹く風で、その子は「楽しかった、でもこわかった」と言って、仲間の元に戻っていった。

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第三章
夢プロジェクトの始まり

1998年、ある支援者から山梨県北杜市白州町の広大な山林を難病ネットが自由に使っていいよと言われました。

あおぞら共和国の始まりを小林信秋は次のように書き残しています。

私は病気や治療の日常から離れたファンタスティックな空間を提供したいと思っていました。難病ネットの活動を始めた当初からご支援いただいているある会社の社長さんには毎年、活動報告をしてきました。ある時、俳侵のポール・ニューマンが作ったキャンプ場の話をして、こんなものがあると良いな~とお話したら、「使ってない3,000坪の土地が山梨県白州にある、自由に使っていいということになりました。南アルプスの甲斐駒ケ岳と八ヶ岳の間に広がる自然豊かな高原白州に常設キャンプ場を建てたらどうかというのです。

 

建設費をどうやって集めるか、運営費は?などなど乗り越えなければならない難問が目の前に立ちはだかっています。でも仲間を募り、理想のキャンプ場建設に向けて準備を始めたいと思います。しかし難病ネットの理事会は資金の乏しい会には無謀と難色を示しました。数年を経て会員の常設キャンプ場への思いは次第に熟成し、建設へと動き出しました。その計両はすんなり『みんなのふるさと夢プロジェクトと名付けられ、2011年7月16日に東京代々木の国立オリンピック記念青少年総合センター国際会議場で発足会(写真)が開かれ、夢プロジェクトはスタートしました。

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夢を託された仁志田博司は当時を振り返って次のように語っています。

私は長い間新生児医療に携わってきたので、NICUを退院した後に障害を持って社会の中で生きていかなければならない子どもたちのことが、いつも心に掛かっていた。2008年に東京女子医科大学を定年退職後、後藤彰子の「新生児に関わった者の義務よという半ば命令のような誘いで難病ネット理事に就任した。

 

間も無く小林信秋から、「かなり前に篤志家から山梨県北杜市白州に広大な土地が寄付され、難病のこどもと家族がくつろげるレスパイト施設の建設計画が持ち上がっていると聞いて、天啓のように私がしなければならない仕事かなと思い、後藤彰子がサポートしてくれるということで実行委員長を引き受けた。後日談であるが、情報提供やシンポジウム等という主にソフト面の仕事をしてきた難病ネットにとっては、施設を建設し運営するいわゆる箱物は初めてで、理事会でもほぼ全員が反対であったという。

 

しかし難病の家族の方々は、これまで既成の施設利用のサマーキャンプで、一般の利用者から心ない言葉をあびせられた経験から、「そんな土地があるなら自前の宿泊施設が欲しいという願いがあった。自分たちの心のふるさとのような所があれば、というのはみんなの当然の願いであった。

小林信秋は、夢プロジェクトが始まったばかりの頃を次のように振り返っています。

『あおぞら共和国』の建設は難病ネットにとって大きな挑戦であり、そんな大きな土地を開発して何かを建設するなど夢のまた夢と思っていました。そこで出会ったのが仁志田博司先生です。サマーキャンプ『がんばれ共和国』は既存の宿泊施設をお借りして長く開催してきましたが、同宿者との間で何度か辛い思いをすることもありました。


学生ボランティアがこども達を入浴させていたら、同宿者が「あらいやだ、汚い」と言って出て行ったと、泣きながら報告してきた事がありました。脱衣所でこども達を寝かせて衣服の着脱をしていると他の客から「ここはあなた達だけの場所ではない」と抗議されました。こども達に使ったタオルケットを干していたら、「見苦しいから片付けろ」と宿に苦情が入ったと報告がありました。こんなことを何度か経験して、「いつか気兼ねなく過ごせる場所が欲しいね」と話すようになりました。仁志田博司先生は「小林さん、夢は見るものじゃない、実現するものだ」と叱咤激励するのです。しかし、小さな団体に3,000坪の土地を切り拓き、そこに建物群を建設して、それを維持管理していくなんて、とてもじゃないけれどそんな恐ろしいことに踏み切れません。結局は仁志田博司先生と後藤彰子先生に引きずられるようにして始まったのが‘‘みんなのふるさと夢プロジェクト’'なのです。


実行委員会を開いて、どんな施設を作るのか、どのように使うのか、どうやって維持していくのか、そんなことを何度も話し合い、宿泊棟を6棟、お風呂棟を2棟、キッズボックス(絵本とおもちゃが一杯の小屋)1棟、センター棟1棟を建設しようと構想をまとめました。定員は60名、これなら小さなキャンプが可能になります。利用は無料で、維持管理も基本的に寄付で賄おうというものです。

 

あおぞら共和国
建設の歩み

2012年整地
2013年起工式
2013年3月 井戸採掘 山城ウエルと命名
2014年3月 ロッジ1 号棟、(一財)日本メイスン財団からの助成による建築
2014年12月ロッジ2号棟、FITチャリティ ・ランからの寄附による建築
2014年12月浴室棟、(公社)24時間テレビチャリティー委員会からの寄附による建築
2015年9月 ロッジ4号棟、王貞治氏、青木功氏、日野皓正氏主催のチャリティゴルフトーナメントからの寄附よる建築
2016年4月 ロッジ3号棟、日本財団とTOOTH FAIRY(日本歯科医師会)の助成による建築フェアリーロード(周回路の半分)
2017年2月 屋外ステージ日野皓正氏の寄附による建築(2018年5月日野皓正Quintet Charity Live in “あおぞら共和国’'開催
2017年5月 じゃぶじゃぶ池、(公社)24時間テレビチャリティー委員会からの寄附による建築
2017年12月Kid'S Box(おもちやあるいは絵本小屋)個人の篤志家の寄附による建築
2019年3月 小林登記念ホール(交流棟)建築
2020年5月 ロッジ5号棟、株式会社日ノ樹からの助成による建築
2021年1月 山寺ロー ド(周回路の残りの半分)山寺義雄氏の寄附よる建造
2021年6月 敷地周囲植栽
2021年9月 正門ゲート(仁志田ゲート)「4本の腕アーチに支えられた子どもをイメージ」

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